2013年09月16日
旅から六ヶ月後
早いもんで、ネパールの旅からもう半年になる。
苦労した英会話のモチベーションもすっかり下がってしまった(笑)
なぜか娘たちのほうがイーオンに通い始めて、リビングで英会話が飛び交う。
次の旅に向けて、そろそろ具体的な計画を練っていけばモチベーションアップに
繋がって行くだろうか?
モロッコの迷宮のような街、スペインのトマト祭り、インドの聖地ベナレス、綺麗な女子と
遺跡にあふれてそうなメキシコ!
旅の夢は広がる一方だ。まぁとにもかくにも、お仕事頑張ろ!
厳しい訓練を修業した仲間たちと!アニメ好きの三人らしい(笑)
お世話になった教官の方と、息子のこんな笑顔を見るのは小学校以来かもしれない。
旅から帰ってすぐ、海上自衛隊での訓練が始まった息子。
五ヶ月近くに及んだ教育期間も無事修業し、筋肉でひきしまったカラダと
少し大人になったイイ顔になって戻ってきた。教官の方々に深く感謝をいたします!
護衛艦に配属された息子は、今日の今頃もどこかの洋上で頑張っている事だろう。
我々ひねくれ親子は、それぞれ順調に進んでいます。いろんな人たちや神々に感謝を。
台風が去って、秋の空が綺麗だ。さぁ今夜もガンバろか~!!
2013年06月13日
ネパールへの旅 最終章 「それぞれの旅へ」
3月16日(土)
ボダナートの余韻に浸りながら、ゲストハウスに戻り、ネパール初日の朝に行った
「ちくさ茶房」に朝めしを食べに行った。
すっかりくつろいだ様子でモーニングを食べる息子を見ながら、ふたりで緊張しながら
パンをかじった初日の事を思いだし、懐かしくなる。
バナナヨーグルトはちみつがけが妙に美味かった。
今日の夜には、日本へ帰る飛行機に乗り、明日の昼過ぎには和歌山に帰っている予定。
そして私はまたカウンターに立って、ウイスキーを注ぎ、粋で優しい常連さんたち
に囲まれた、平和で楽しい日常に帰っていく。
海上自衛隊に入隊した息子は、舞鶴にある軍の学校にて、四月一日より厳しい
訓練生活が始まる。
バーテンダーという職業を卑下している訳ではないが、どこか後ろめたい気がしている私は、
自分の子供たちには、直接、人様や社会の役に立ち感謝されるような職業に付いてほしいと
願っていた。その願いを時折、子供たちにもいい聞かせてきた。
自らの意思で自衛隊を志願し、自分以外の人達を守る尊い仕事についた息子を、
心から誇りに思う。
帰国後の壮行会にて。いさぎよくアタマを丸めた息子、へんに迫力が出た(笑)
「ちくさ」を出て、息子はゲストハウスに戻り、私は頼まれていた岩塩を買いに市場のほうへ。
カトマンズで一番のお気に入りの場所になった、アサンチョークの広場に向かう。
あいかわらず賑やかな通りを歩きながら、今朝、ネパールに来て初めて街を楽しんで、
ゆったりとした気分で歩けている事に気付いた。
やっとしっくりと肌になじんできたというか、街に溶け込めている感覚になっている。
道行く人達や行商のおばさん達の視線も、やさしく好意的に受け止められる自分がいた。
岩塩を買ったお店にて。写真を撮らせてもらっていい?と聞くと恥ずかしそうにOKしてくれた。
朝っぱらからチェスに興じる男性たち、街中は職にあぶれてヒマを持て余す人達で溢れていた。
涼しい朝方のうちだけ、色んな肉の行商があちこちに出ていた。ヤギの頭はどう料理するんだろ。
ネパールの人達や風土には、皮を剥ぎたての肉のような、むき出しのナマナマしさを感じた。
なにもかもコントラストが強くて、直接的なのだ。
そしてそれに戸惑い、ときには嫌になったこともあったけど、いまはとてもいとおしい。
おそらく最終日だから少し感傷的になっているんだろうが、街の喧騒に包まれている事が
とても心地よい。
ずっと以前に、ここに住んでいたような、不思議な気分を感じてしまった。
宿に帰ると、息子が服を着込んで、ベッドにダウンしていた。
旅の終わりになって、張り詰めていた気が緩んだのか、どうやら風邪気味のようだ。
思えば、普段あまり口をきくこともない父親の気まぐれに、よくここまで付いてきてくれたもんだ。
幼少の頃から、繊細すぎて心配なほど心がナイーブで清潔症だったあのウタロウは、
父が思っていたよりずっとタフな青年になっていた。
宿に帰ると、息子が服を着込んでベッドでダウンしていた。
旅の終わりに、張り詰めていた気も緩んだのか、どうやら風邪気味のようだ。
しかし考えてみると、普段話すこともなかった父親の気まぐれに答えて、よくこんなところまで
付き合ってくれたもんだ。
幼少の頃、あまりに繊細でナイーブな性格と清潔症で心配したものだったが、
父が知らない間にタフでたくましい青年になっていた。
少々ひねくれてはいるが・・・(笑)
せっかくやから記念に乗っとくか!と恥かしがる息子を強引にリキシャに乗せた。
ユーモラスなリキシャ乗りのオヤジと。ネパール人は老け顔だからもしかしたら私の方が年上かも
どこの国でもそうかもしれないが、貧しそうな庶民の人達のほうがイイ人柄を感じることが多かった。
フロントでチェックアウトを済まし、夜まで荷物を預かってくれるよう御願いする。
ネパールで我々親子といちばん仲良くしてくれたスーザンに、少し早いがお礼と別れの
挨拶をしておいた。
「今度また来るときは、もっと英語をマスターしてくるから、スーザンも日本語頑張ってな。」
スーザンに聞くところによると、「三年後くらいに一人でまたネパールに来るからよろしく」と
息子が言っていたらしい。
ネパールに来て、またひとつ嬉しい言葉が聞けた。
明るいうちに記念写真を。スーザンとフロントの兄さん、偶然通りかかったヒマラヤ仲間の黄色い
Tシャツの?氏と!すごい偶然に息子が興奮していた。
今回の長い旅の日記において、書こうか書かまいか悩んだことが沢山あった。
旅のあいだ中、しょっちゅう思い出しては考えていた。自身の子供時代と父親のこと。
その他、遺伝に関することや、もろもろの暗い話・・・。
今は書かずに置いてよかったと思える。
読んでもらって楽しいことじゃないし、第一、エエ歳こいだオッサンがみっともない。
育ちや環境から来る、悲しい負の連鎖は私の代で終わった。
終わらせてくれたのは、溢れる愛情で子供達を育ててくれた妻である。
私も今後の人生において、人徳の高い妻や子供たちに負けないよう、すこしでもマシな
人間を目指すつもりである。
そして家族に呆れられない程度に、ほどよく遊ぼうと常に企んでいるのだ(笑)
感慨深げに、アサンチョークの交差点に立つ私。なんか不審そうな顔で見られている?(笑)
和歌山に帰ってきてから、また私たち親子は必要以外に口を聞くこともなく、以前どおりに戻った。
息子が舞鶴に出発する朝に、大ゲンカをして怒ったまま別れてしまった。
今も妻にたまに連絡はあっても、私には一切ない。
でもそれで全然かまわない、いつまでも私は彼の目の上のタンコブで本望なのである。
始まったばかりの彼の一人旅を、陰ながら応援していよう。
結局、父としての私は、息子にほとんど教えを与える事などできなかった。
この二週間も、素のみっともない自分を見せただけで終わってしまったような気がする。
ここいちばんの見せ所がなかったな(笑)
いつか息子がこの日記を読んで、この旅を懐かしんでくれるだろうか?
・・・・・・・・・カトマンズの夕方。風邪気味の息子をゲストハウスに寝かし、
最後にもういちどアサンチョークの街角に向かった。
混雑する交差点に立ち、行きかう人やクルマを眺めながら「積荷のない船」を聞く。
涙があふれてとまらない。・・・気持ちわるいオッサンになっているだろうな。
そしてネパールに感謝と最後の別れを告げた。
詩朗(うたろう)、朗らかにうたう、当時の若さのまま私が名づけた
少しばかりロマンティックな名前だ。
この二週間、どうもありがとう。
残念ながら子供時代の彼には、あまりいい父親にはなれなかったが、
これから大人の遊びを色々と教えてやろうか・・・。
最後まで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
心から感謝を!
2013年06月07日
ネパールへの旅 vol.24 ボダナート
3月16日(土)
自然に目が覚めると朝の5:30、この旅では遅起きのほうだ。
今日はとうとう最終日、一緒に行こうと息子に声をかけるが、まだ眠ると言う。
今朝の街は、土曜日なので人通りも少ない。
タクシーに乗り、チベット仏教徒の聖地である「ボダナート」に向かう。
「ボダナート」周辺は、亡命チベット人が住みついて街になったらしい。
ここに居る人の多くは、赤い大国の圧政から逃れ、命がけでヒマラヤを越えてきた
人達やその子孫だと思うと、彼らの祈りに深い何かを感じてしまった。
彼らの文化や宗教や言語を、地球上から消滅させようとする人達がいる。
ストゥーパの周りを祈りながら右回りに歩く人たち、祈りの純度が高い場所だった。
神様に捧げるバターランプの灯り、並べられた金属の器には水が注がれていた。
マニ車が回るごとに、聖地に鐘の音が響き渡る。
無言で五体投地をくりかえす信者たち、観光者には肩身のせまい場所だった。
世界でも最大級の規模を誇るというボダナートのストゥーパ。とにかくでかい!
階段を歩き、ストゥーパに上がると(信者以外は立ち入り禁止だと後にわかる)、東の空から
朝日が昇ってきた。
毎日のように見た朝日も、今日で最後になる。今まででいちばん綺麗な日の出が見れた。
少々強引にでも息子を連れてきたらよかったと後悔した。
ネパールの観光地としては、マイベストワンの場所になった。他の寺院とは空気感が全く違う。
今回の日記はえらく硬い感じになってしまった。どうもスイマセン(-_-;)
私生活で遊びすぎていると、なぜか日記が硬派になる傾向があるみたいで(笑)
次号で最終回になりそうなのだが、書きたいことが沢山あって迷ってしまう。
あまりセンチなラストにはしたくはないが・・・
次号につづく・・・
2013年05月30日
ネパールへの旅 vol.23 パティパシュナート寺院
3月15日(金)
パシュパティナート
カトマンズにあるシヴァ神を祭るネパール最大のヒンドゥー教寺院。
シヴァが滞在したとの言い伝えのあるこの地は、
はるか1500年以上も昔から巡礼の地となっており、
ヒンドゥー教が国教であるネパールでは最高の聖なる地である。
寺が面しているバグマティ川には、隣接した火葬台を複数備える火葬場があり、灰は川に流される。
バグマティ川は、ヒンズーの聖地である。
インドのバラーナシを流れるガンジス河に通ずる支流にあたるため、ここのガートで荼毘に付せば
母なる大河ガンガーへと戻ってゆくと考えられている。
ネパールに来て、今日でもう13日目。
明日の夜は、日本へのフライト。まる一日過ごすには最後の日になった。
眠たそうな息子を起こし、早朝からパシュパティナート寺院に向かう。
カトマンズで最も訪れたかった場所であり、最もネパールらしく、日本の日常から
かけ離れたものが、そこに行けば見れるような気がしていた。
川原で焼かれる遺体の姿や肉の焦げる匂いを、息子と共に体感したいと思った。
そんな悪趣味な好奇心の意味を問われても、上手くは答えられないのだが・・・。
神の存在や死について、18歳の息子がどう考えているのかはわからない。
聞いてみたいともあまり思わないし、そのような事について、
二人で話し合う機会はこの先も一生ないかもしれない。
「ジョジョの奇妙な冒険」へのオマージュらしい。
息子を旅に誘った理由は沢山あった。
どんよりと平和な日本の地方都市に暮らし、ゲームとアニメと漫画に浸かりきった、
彼の脳みそに、体験したことのない異物な刺激を与えたかったのもそのひとつ。
4月から家を出て社会人としての生活が始まり、そして過酷な訓練が待っている。
常に自己判断が問われ、行動にリスクが伴う旅の日々を過ごすことで、
少しでもタフになって欲しかった。
そういう意味では、オヤジがまったく旅慣れていないことが、思わぬ功を奏したようだ(笑)
みんなでラジオ体操?
残念ながら、パシュパティナートは全くといって厳かな場所ではなかった。
遺体を焼いている人たちはなく、修行をしているサドゥーもいなかった。
そこら中で、バトミントンやジョギング、筋トレやストレッチなどをする地元の人たち。
すっかり市民の憩いの広場といった感じである。
ヒンズー教徒しか入れない場所がいくつかあって、その中は興味深い様子だったが・・・。
もしかしたら夕方に来ていれば、また違った景色が見れたのかもしれない。
ここにも我がもの顔のサルたちがたくさんいた。がっかりしながら帰路につく。
昨日の朝と同じ店で、オムレツサンドとカプチーノを食べる。美味し。
息子の買い物につきあって、街にでかけた。セト・マチェンドラナート寺院にて
帰り道にビールを、息子はチョコウェハースとレッドブルを買って、ゲストハウスの屋上に上がった。
強烈な真昼の日差しに目を細めながら、殺風景なカトマンズ市内をぐるりと一望し、
旅の終わりを思って、感慨深くなる。
そろそろ息子も私も、旅に倦みだしてきたようだ。またお互いに口数が少なくなった。
ネパールに来て初めて名物料理のモモを食す。ネパール版ギョウザ、皮が分厚いのが難点。
晩飯までの時間をもてあまして、街をぶらつく。日本の古本屋でマンガを吟味する息子。
「カメレオン」というヤンキー漫画と「セーラームーン」の2冊を買っていた。なぜにそのセレクト?
私とは漫画の趣味がまったく合わない。
最後の夜も日本料理に(笑)、「ふる里」というしぶいネーミングの店で。
ネパール最後の晩飯を、ツボルグで乾杯。
しかしツボルグはよく飲んだ、思い出のビールになってしまった。
ウタが「ナマズの蒲焼き」、「砂肝焼き鳥」、「白ご飯」を、
私が「親子丼」と「焼きなす」を頼んだ、店員のネパール女子が元気でいい感じだ。
あいかわらず、貪るようにがっつきながら食べる息子を見て、
「まぁ、ゆっくり食べなぁよ」と、この旅で十回以上言ったセリフを繰り返す。
息子は、まったく意に返す様子もなく「カツ丼も頼んでいい?」
モノの食べ方については、他人のことをまったく言えない私だが、
あまりにも見映えが悪く、一緒にいるのが恥ずかしいのでやめてくれ!
と言おうとしたが、止めておいた。
「どうしても、ゆっくり食べれやんのか?」と抑えて聞く。
「無理!」
「そうですか・・・」、以前の私ならキレていた場面だろうな(笑)
このあと、地元のバンドが演奏している「ロック・バー」にでも行って、最後の夜を
共に酒でも飲もうと思っていたが、それも止めておく事にした。
カトマンズに来たばかりに行ったバーでのポップコーンの件も思い出して、
「十年早いな」とまた独りごちる。
今夜はとことん飲んでやろうと思っていたが、そんな気分でもなくなった。
明日も早起きして、「ボダナート」というチベット仏教の聖地に行くことにしよう。
当初は行くつもりもなかった場所だったのだが。
次号につづく・・・
2013年05月23日
ネパールへの旅 vol.22 カトマンズ散策
3月14日(木)
AM5:00起床。まだ外は真っ暗で、街は静まりかえっている。
時差が3時間15分あるから、日本は朝の8時15分か。
いまごろ娘達があわただしく登校しているんだろうな、早く会いたくなってきた。
街中でも一日に約8時間停電する。予備バッテリーからの薄暗い照明が逆に好みだったりする。
なかなかお湯が出てこない上に温度調節が毎回変わるシャワーにも慣れてくるもんだ。
昨夜も遅くまでフロントのスタッフ達と喋っていたのか、寝息をたてて熟睡中の息子を置いて
薄明るくなった早朝のカトマンズの街にくりだした。
とりあえずの目的地は、スタッフのスーザンお薦めのスワヤンブナート寺院。
地元ではモンキーテンプルと言われている、カトマンズ最古の寺院だという。
通学中の女子学生。いつもゴミを焼いている場所なのだろうが、シュールな光景だった。
仲のよい野良犬とニワトリ。
河原もナイロン、プラスティック系のゴミだらけ。排気ガスとゴミは深刻な問題だという。
ヒンドゥー教の石像や祠のようなものが、街中のいたるところにあった。
お年寄りはもちろん。通勤、通学途中の若者までが立ち止まってお祈りを捧げたり、
石像にサッと手をふれて歩いていく。誰もがごく自然な毎日のことのように。
ヒンドゥーにはいろんな神様がいる。この神様はなんだろう?
寺院に向かう坂道を歩いていると、祈りの合唱のような音楽が聞こえてきた。
山頂付近のスピーカーから大音量で流しているようだ。録音されたものかリアルタイムかは
わからないが、来た道を振り返って、早朝の街の風景を眺めると、妙に心に響く。
日本から持参の、ペットボトルに入れたお気に入りのシングルモルトを飲みながら歩いた。
朝から参拝しに行くところなのに不謹慎のような気がしたが、ネパールでは許されている
ような空気が流れている。日本の寺社仏閣のような厳粛さがまったくないのだ。
ネパールの神様たちも細かい事は気にしないはずだ、都合のよい勝手な解釈だけど(笑)
カラフルな仏像に寄り添う猿たち。堂々とのびのびと暮らしている感じだった。
寺院へと続く急階段、登っていくごとに合唱の声がだんだんと大きくなっていく。
ストゥーパと呼ばれる仏塔。地、水、火、風、空という宇宙を構成している5大エネルギーを象徴
しているという。すべてを見通すブッダの目が書かれている。
俺を撮ってくれ!と言ってきたファンキーな親父。合唱に合わせて気持ちよく踊っていた。
山頂からは、カトマンズの街が一望できる。太古の昔は湖だったらしく、
この寺院はその頃からあるらしい。
ストゥーパの近くにある建物のなかで、信者たちが祈りの歌を合唱していた。
よくわからないタイミングでオッサンが吹く法螺貝が鳴る、やはりどっかアバウトな空気が
ネパール風でいい感じである。
ゲストハウスに戻って、息子を起こす、まだ朝の8:00だ。
「モンキーテンプルは案外良かったよ」、と言ってみたが予想どおりの関心のない返事。
まぁお寺や宗教に興味が持てる歳じゃないのが当たり前で、だから私一人で行ったのだが、
できれば息子にも見て欲しかった気がした。
パンパニケル・ベーカリーというカフェでパンとオムレツの朝食、落ち着いた店内がベリーグッド。
もうおなじみのバンダで、この日も夕方まで交通機関がストップするという。
予定を変更して、息子と一緒におみやげを買いに出かけた。
互いにゆっくり時間をかけて、家族や友達たちへのおみやげを選ぶ。
和歌山に帰ったら、現地の衣装で友達に会いに行きたいと息子が言い。
「これってどうかな?」と嬉しそうにコーディネイトを聞いてくる、若者は買い物好きなんだな。
「ガーデン・オブ・ドリームス」、1920年に造られた宮殿の一部を改修したらしい。騒々しいタメル
地区にある静かなオアシス。
暑かった日中も、夕方になると涼しい風がここちよく吹いてきた。湿度が低いからか汗はかかない。
夕方、晩飯にはまだ早いという事で、ゲストハウスの近くにある庭園に行くことにした。
私は、日本から持ってきた小説も読む気にもなれず、昼寝を決め込み、
息子は、なぜかゲストハウスにあったゴルゴ13を読んでいた。しかしシブいチョイスだな。
抱き合っていちゃつくカップルの横で、ゴルゴを読み耽る息子。
晩飯は、日本人オーナーのカフェでトマトチキンカレーと和風大根パスタを食べる。
食後の珈琲も美味し。「ちゃちゃかふぇ」というカワイイ名前の店だがスタッフ達はいかつい
ネパール人。エベレストにも登っているというオーナーは不在だった。
すっかり早起きサイクルになり、晩飯のビールを飲むと早くも眠気がやってくる。
旅の始めにカトマンズに寄った時からずっと、自分用のグルカナイフを探すのに夢中に
なっている息子。
すっかり街にも慣れた様子を見ていると、頼もしくなったもんだと素直にうれしい。
あきれるくらいに根気よく値段交渉をする息子、ネパール人の店主に同情してしまう(笑)
少し飲みたりなかったので、ビールを買い込みゲストハウスに戻る。
今日も一日中、飲んでばかりになってしまったな。(ーー;)
明日は息子を連れてパシュパティナートというヒンドゥー教の寺院に行く予定。
インドのように、川沿いで火葬しているという。今回いちばん楽しみにしている場所である。
次号につづく・・・
2013年05月17日
ネパールへの旅 vol.21 再びカトマンズへ
3月13日(水)
あまり眠れないまま、二時間ほどの浅い眠りで朝を向かえてしまった。
今日は朝7時のバスに乗り、カトマンズに出発する予定になっている。
私の枕元になにやら袋が置いてあり、中を開けてみるとナイフが入っていた。
どうやら息子からの誕生日プレゼントのようだ。
昨夜はこれを買いに行ってたのか。拙い英語で値段交渉する息子の姿が眼に浮かぶ。
パンツ一丁のままこっちに尻を向けて寝ている息子を眺め、
これがツンデレっていう奴なんかなと笑ってしまった。
男にしておくのは惜しいな、なかなかおっさんの扱いに長けてるやないの。
よし!今日も天気がよさそうだ。43歳の誕生日はいい感じでスタートした。
現地では「ククリ」と呼ばれ、英語ではグルカナイフというらしい。山のテント泊に持っていこう。
今日もまた、共産主義者たちによる強制ストライキが行われるようだ。
バスが定刻に出発できるかどうかも怪しいとの事。
まぁどちみち今日は移動日だから、夜になってもカトマンズにさえ着ければいいのだが・・。
徒歩で移動するため、早いめにゲストハウスを出発したが、
大通りでこっそり客を待っている、モグリのタクシーを捕まえた。
相場の三倍くらいの値段だったが仕方がない。
せわしなく周りをキョロキョロしながら、急発進するオンボロタクシー。
大通りを歩く人達や自転車を縫うようにして走りながら、飛ばしまくる。
まるで犯行現場から逃げる窃盗団のようだ。
マオイスト達の投石を恐れているのかもしれないが、ドライバーは変にテンションが高い。
無事バスターミナルに到着、歩けば結構な距離だったのでラッキーだった。
まだ新築に近い「空ゲストハウス」、部屋も清潔でポカラに行く人にはぜひオススメです。
ネパールに関する本も出版している山岸さんとかわいい顔のクリシュナさん、お世話になりました。
またバンダでタクシーがなく、歩いてバスターミナルに向かう。焼きたてのチョコパン美味し
色とりどりのバスターミナル。
どうやらマオイストが先導する強制ストライキで、9時にならないと出発できないと言う。
所在なく二時間をやりすごす、こんな遠くに来てまでも赤い大国の影響を受けてしまう事に
うんざりしてしまう。この先息子の仕事にも大きく影響してくる存在でもある。
もちろんすべての日本人にも。
休憩で止まったドライブインで、標高400mくらいのこのあたりはまるで南国のような暑さだった。
日差しの強さがあきらかに日本とはちがう。色ひとつひとつが鮮やかでなにやら心がざわつく。
荒れた路面の凸凹でカラダを上下に揺すられながら、窓を開けてのどかな風景を眺めた。
座席には余裕があって、息子は反対側の窓際に座り首をふられながら器用に寝ている。
ネパールだけじゃないのだろうが、南国の光は人を安心させるやわらかさを感じる。
そしてまた、土埃と排ガスとクラクションもなんとなく懐かしいカトマンズに帰ってきた。
「シェリーチベットゲストハウス」に連泊する事にして、スーザンとの再会を喜び合った。
あいかわらずファンキーで陽気な兄ちゃんだ。笑顔がかわいい。
四階の眺めのいい部屋に、荷物を降ろしてベッドに腰をかけるやいなや、
眼鏡をバスに落としてきたと息子が言う。
そういやバスから降りてくるのが変に遅かったのは、眼鏡を探していたからだったのか。
「なんで、あの時言わんねん!一緒に探したのに」と思わずカッとなりかけてしまったが、
ここは冷静になり、とにかくフロントに行ってスーザンやスタッフ達に相談しようと提案した。
「コンタクトがあるから別に要らんと思った」、「べつにもうなくてもいいやろ」という息子。
メガネはお前のお金で買ったものじゃないし、帰ってから新しく買うのも自分の金じゃないだろう。
そう思ったが、息子には言わずにおさめた。
来月から自分で稼ぐようになったら、ありがたみがわかるだろう。たとえ何千円のメガネでも。
写真が趣味だという大阪のナツコさん、スーザン、人ごとみたいな息子
フロントのスタッフ達は、「俺達にまかせてくれ」とバスの切符を頼りに
いろんなところに電話をかけてくれ、どうやら郊外のバスターミナルに私らが乗ったバスが
止まっていることをつきとめてくれた。
「よし、いまからターミナルに行こう」とスーザンが案内してくれると言う。
ハプニングもなんか楽しくなってきた。
何回も電話をかけたり、ガードマンに尋ねてくれるスーザン。すっかり他人事のようなバカ息子(笑)
途中、大阪出身だという一人旅の女子と出会う。二ヶ月近くもネパールを旅して今夜日本に帰る
らしい。ほんの十分程度だったが、タフで明るい彼女の話は面白かった。
大阪で写真の個展をするかもしれないそうで、その時はぜひにとサヨナラをした。
ネパールに来て初めてまともに日本の女子と出会えたなぁ、と息子に言う。
「まぁこれもメガネをなくしたおかげかな」、頭ごなしに怒らなくてよかったなと思った。
窓からの景色、夜になると快適に涼しい。前のディスコ?の大音量に悩まされる・・・。
スーザンやスタッフのおかげで無事メガネも返ってきて、めでたしめでたし。
晩飯は、近くにある「桃太郎」カトマンズ本店。軟弱だがもう日本食から離れられない(笑)
次号につづく・・・
2013年05月14日
ネパールへの旅 vol.20 ポカラの休日②
3月12日(火)
ゆったりとしたポカラの街で今日一日くつろいで、
明日はまた、カトマンズまでオンボロバスでガタガタ道の移動日の予定だ。
そして明日になると、私はまたひとつ歳を取り43歳になる。なってしまう。
まぁ42も43も何て変わることのない数字なのだが。旅の途中で誕生日を
迎えるのはちょっとロマンチックで嬉しい。
お気に入りの湖畔沿いの道を走る、とおくにポカラの観光街が見えている。
18才の息子に対して、また逆上してキレてしまった事を情けなく恥じながら、
42のオヤジは、人気のない静かな場所を求めて自転車を漕ぐ。
「なぜそれが良くない事なのか」を頭で考え、整理して理屈として伝えようとしても、
本人を目の前にすると感情的になってしまい、いつも筋道を立てて諭すことができない。
私にとって息子と真剣に対峙するのは、結構しんどい事なのだ。
自分が己というものをいかに持っていないのかを、日頃いかに物を考えていないかを
見せつけられる事になってしまうのがツラかったりする。
この歳になっても、いまだに心が不安定で、確固たる思想も座右の銘もなにもないのだ。
偉人の自伝を読んでは興奮し、感動のドキュメンタリーを観てはすぐに感化されてしまう。
草のうえに座り、またリピートして「積荷のない船」を聞く。風がほどよく吹き、日差しはやわらかい。
昔からいつも私は、他人にはっきりとした進言や意見を言えない。
義務や責任からなるべく逃げて、ふらふらとだらしなく生きている私には、
誰かに語ったり教えたりする資格はまったくあるとは思えないのだ。
学校の先生や医療関係の人たちや現場で汗して働く人たち、
世の中には立派に生きている人達が結構いて、息子には、そんな人達と出会い
影響を受けてほしいと願う。
湖で漁をする女子、日本ではまず見られない渋い光景である。
正直、私より子供たちの方がはるかに人間としての品格を感じる。
素晴らしい母親の愛情を受けた三人は、嘘やズルさがなさすぎて心配になるほどで、
特に、まじめでストイックな二人の娘たちへは尊敬の念があり、日頃も頭があがらない。
そんな私が、息子の目を見て堂々と語れないのも無理はないのだ。開き直ってやる(笑)
つくづく自分は父親向きじゃないなぁとあらためて思わされる旅である。
遊び好きで、美味しい酒や飯、女子への関心が脳みその大半を占める事を
ばれないように隠して棚に上げながら、しらじらしく父親づらしても、
もしかして子供は本能的にうっすらと見抜いているのかもしれない。
まぁ気が楽だから、それでも別にいいんだけど。
これ以上行けないところまで自転車で進んだ。マウンテンバイクはけっこう楽しいもんだ。
カフェにてまたビールと持参のスコッチを飲み、買い物めぐりをしているであろう息子と偶然あえれ
ばとメイン通りを眺める。いい店だったのでまた晩飯のあと一緒に来ようと計画する。
ほろ酔いでごきげんになり街を闊歩しながら、宿に戻り鳥の声を聞きながら昼寝をした。
五時に宿に帰ってきた息子に、朝の事を謝り、また桃太郎へ向かう。
互いに無口なまま、カウンターから通りで遊ぶ子供たちを見ながらビールを飲む。
すっかり日本食なわたしたち。
もくもくと食事する私達の目の前で、少し恥ずかしそうにしながら無邪気に踊る女の子。
ふと息子に聞きたくなって、話しかけてみる。
「なぁ詩、小さい頃のいちばん古い俺との記憶ってなんだ?」
「わからん」
「・・・じゃあ、オカンとのいちばん古い記憶は?」
「・・・・・」
「ないのか?」
「ない」
「食ってしもたから、もう買い物に行ってきていい?」
「・・・じゃあ九時までに宿に戻れよ」
なんだかうまくいかないもんだな。(-_-;)
小さかった頃の息子に雰囲気の似た男の子を見ながら、残りの飯を食った。
昼間と同じ席に座り、暗くなる通りを眺めながら、同じくビールとスコッチを飲む。
前の席のヒッピー風の白人が、しきりにウロウロして怪しい。ウエイターも迷惑そうにしている。
どうやら立て続けに吸っている紙巻はタバコじゃなさそうだ。
突然、振り向いて私の顔を見つめて、「日本の地震はとても悲しいことだ」と言ってきた。
目に涙をためて悲しそうな顔をしている孤独そうなヒッピー。たぶんいいヤツなんだろうな。
「トウホクはもう大丈夫なのか?」
「大丈夫だ、少しづつ復興しているよ」と手のひらを右肩あがりに動かして日本語で言った。
宿に戻り、早い目に布団にはいるが昼寝のせいか全く寝られない。
食堂からは、クリシュナさんと息子の話し声が聞こえている。
もう何時間も楽しそうに話している、いろんな話しを聞かせてもらっているのだろう。
旅で出会う人たちと積極的に触れ合おうとする息子が頼もしくて嬉しい。
明日からは、もう少し息子と距離を置き、彼が色んな人たちと触れ合える事を
さりげなく見ていてあげようと思った。
別に拗ねているわけではなく、その方が彼にとってずっといい事だろう。
日付が変わった時計を、うとうとしながら見て、なんかサエない誕生日を迎えたなと
枕もとのウイスキーでひとり乾杯した。
次回につづく・・・
2013年05月11日
ネパールへの旅 vol.19 ポカラの休日
3月12日(火)
AM5:00起床
息子は、まだ熟睡しているようだ。
昨夜は遅くまで宿のご主人のクリシュナさんとなにやら話していた様子だった。
二人はなぜか気が合うみたいで、後々聞いた所によると彼のお気に入りの
エベレストビールを結構ごちそうになったりしていたらしい。
酔った二人でどんな話をしてたのだろうか、なんとなく微笑ましい図が浮かぶ。
私が話しかけたり、持参のスコッチを勧めたりしても微妙に笑顔でフェイドアウト気味な
クリシュナさんだったのに・・・(笑)
朝焼け。ゲストハウスの屋上から。ポカラは今日もいい天気になりそうだ。どこからかニワトリの
古典的な鳴き声が聞こえてくる。
洗面所の照明が暗すぎるので、奥さんに鏡を貸してもらって髭を剃る。朝日は確かに目によさそう
昨夜の会議の結果、今日は夕方5時まで自由行動となった。
「桃太郎」という日本料理屋の朝定食は7時から、それまで湖畔沿いでも散歩しよう。
寝ている息子を置いて、早朝の街にくりだした。
子供のころの夏休みの朝のような太陽の光と空気感。そういやジャリ道の感触も懐かしい。
遠くに霞むマチャプチャレ。あのすぐ近くに行ってきたんやなぁと、親しみと少しの優越感。
朝めし食べたら、また自転車を借りる予定。今度は良心的なレンタル屋を吟味しなければ。
珍しく向こうから話しかけてきた若者、日本に行くのが夢らしい。私の帽子をえらく褒めてくれた。
通学バス。現地の子供たちはカメラを向けるだけで楽しそうにはしゃいでくれる。かわいいもんだ。
もうすぐオープンの「桃太郎」に向かって、街の大通りを歩く。
こんなに早朝なのに、地元の住民たちは、何をするわけでもなく通りに出ている。
テレビがない時代の日本も少し似た感じだったのだろうか。
止まっているクルマの周りに人が群がっていた、軽い接触事故のようだ。
やがて警察がやってきて、強引ぎみな大岡裁きで一件落着?
なんにしてもどこか長閑な空気が流れる、ネパール。
フルオープンな店構えの桃太郎。店長のお兄さんもフレンドリーで日本語が上手だった、オススメ
メニュー写真を見てるだけでテンションがあがる!およそ300円の朝食セットを頼んだ。
野菜炒めも玉子焼きも旨し!にぎやかな通りを眺めながらの和食、面白いシチュエーション。
朝ごはんを堪能して、ごきげんでゲストハウスに戻り、
朝食に出かけようとする息子に、桃太郎をオススメする。
その後、少し奮発してトレックというマウンテンバイクを借りた。
ペダルを踏むのが気持ちいい、前回のバイクとは天と地の差がある。
そして息子にレンタサイクル屋の情報を伝えようと「桃太郎」に向かったのだが・・・。
ひとり「ワンピース」を読んで座っていた。
こっそり近づいて声をかけると、漫画に目を落としたままめんどうくさそうな返事の息子。
しょうもない事なので詳しくは省略するが、あまりの不遜な態度に私がまた堪え切れずに
ブチきれてしまい・・。
バイクに跨ったまま、カウンターに座る息子に大声で罵声を浴びせまくってしまった (-_-;)
それも後で恥ずかしくなるほど全く感情のままに・・・。
そしてまた怒りに憤りながら湖畔沿いを走る私・・・なんか前と一緒やないの(笑)
今こうして書いているとホントに情けないが。
むかつきながら、レストランのデッキチェアに寝そべり早くもビールを飲む。両隣ともサングラスを
かけたタンクトップの白人女子なのに、前の道を歩くネパール男たちは私ばっかりジッと見やがる。
そんなに珍しいか?動物園の檻にいる気分で落ち着かず、すぐにそこも立ち去る。
すいません、また個人的なくだらない話になってしまいました。
次号につづく・・
2013年05月08日
ネパールへの旅 vol.18 トレッキング最終日
3月11日(月)
4:30頃起床、昨夜の雨もあがり、満天の星空が綺麗だった。
本日は6:00に出発して、日没までにポカラの街まで戻る予定。
今日は長い距離を歩く、ハードな一日になりそうだ。
気合を入れて、まだ薄暗い中バンブーを出発!
トレッキングポールを二本持ってきていれば今回の山行はもっと楽チンだっただろう。せめて杖
がわりの竹の棒をゲットした。細くて頼りなさそうだが、これが階段で威力を発揮する。
行きは長い下りだったチョムロンの果てしない階段を、汗まみれのフラフラで登りきった。
地図上では、おそらくこれが最後の登りである。実際そうだった。
今日で、風呂に入らずに3日目になった。自分の頭皮からは懐かしい香りが漂ってくる。
風呂なしボロアパートで極貧生活をしていた頃を思い出す。あの頃はバブルの
真っ最中だったのに、なんであんな暮らしになってたんだ?
標高が下がっていくごとに、周りの景色が南国に変わっていく。
気温と湿度も忠実に上昇していく。
ポカラに着いて、風呂に入るのが楽しみだ。そのあとのビールも!
近くに温泉があるジヌー(1300m)という集落のゲストハウス、花や木々も南国風になってきた。
ジヌー近辺。誰かの粋な計らいで、いかにも美味しそうな湧き水。飲まずに塩でざらつく顔を洗った。
モディ川沿いの長閑な道を、出発地ナヤプルに向かってひたすら下っていく。途中に乗合ジープが
集まる集落があるとの情報だが・・。
ヤギの子供?
少し先の方に、ジープが集まっているのが見えた。地元らしき人たちも大勢いる。
途中に出会って、追い越したり追い抜かれたりしていた白人のお兄さんに、
よかったらポカラまで乗合いジープをシェアしないか、と話をもちかけてみる。
我々は英語がダメなので、値段の交渉をお願いすると、快く引き受けてくれた。
互いに1000ルピーづつの2000ルピーで交渉成立、うまく物事が進むもんだ。
車内には、おそらく十代くらいの男女ばかり乗っていて、
定員五人ほどの四駆に、数えてみたら12人も載せている(天井にもひとり!)
訳のわからないネパール語で急き立てられながら、
我々三人は、椅子のない荷物置き場に詰め込まれた。
シャイで無口なタランティーノ?似の青年と、単独で静かなトレッキングを楽しんでいたようだ。
ドライバーの若者は予想通りの激しい運転で、むやみに追い越しむやみに飛ばしまくる。
タランティーノは不安そうな顔で前方を見つめていた。
となりに座った女子が、次から次へと慌ただしく音楽をチェンジする。
どれも同じような曲に聞こえるが、これがネパールの若者に流行ってるのだろうか。
すぐ前の座席には、彫像のように整った顔をした美人の二人組が乗っていた。
不機嫌な表情で、一言も喋らずまったく周りも見ようともしない彼女達のクールな横顔を
チラチラと遠慮がちに見るオヤジな私。美少女には不機嫌な顔がよく似合う。
まだまだ日差しの明るい、16:00頃にポカラに到着。
連絡をできないままだったが、「空ゲストハウス」の夫妻は、突然帰ってきた
汗と土ぼこりだらけの我々を温かく笑顔で迎え入れてくれて、
無事トレッキングが終了した事を喜んでくれた。
こうしてとりあえずこの旅のメインである、アンナプルナB・Cトレッキングは幕を閉じた。
神々しく壮大な景色と、どうしようもなく人間的で小さく情けない我々親子との
コントラストは、間違いなく生涯の思い出になったと思う。
何年後かに、酒を酌み交わしながら笑って語れる日がくるだろうか。
ゲストハウスの玄関で、お気に入りのビール「ツヴォルグ」で乾杯!山の神々に感謝を。
高級日本食レストランで焼き鳥や串カツをむさぼり食う息子、私はしょうが焼き定食をがっつく。
ひさしぶりの和食に興奮気味の親子だった。
旅はこの後、再びカトマンズへ。
すこしダラダラ気味になってきましたが、よかったらこの後も読んでくだされば幸いです。
次号につづく!
2013年05月03日
ネパールへの旅 vol.17 アンナプルナB・C~バンブー
3月10日(日)
マチャプチャレB・C付近にて、夏にむけて雪は徐々に融けはじめていた。
午前中は、眩しいくらいの晴天だったが
昼過ぎになると、麓のほうから黒い雲が押し寄せてきて
あっという間に本格的な雨になってしまった。
川沿いの岩場あたりで、山に来てはじめて日本人とすれちがった。
大阪からきた好青年で、ガイドとポーター付きの白人青年とちょいギャル系な
チャイニーズ女子二人と意気投合して、グループで登っていると言う。
なにがそんなに面白いのか、女子二人はキャッキャとえらくはしゃいでいる。
もしかして俺ら親子にトキメいているのだろうか(笑)
上部の情報を彼に伝え。では気をつけて、と互いに反対の道を進み始める。
「くそ~あの兄ちゃん、うらやましいな!」と息子に訴える。まったく軟弱な奴らだぜ!
二日前に泊まったヒマラヤのゲストハウスにて雨宿り、バックに写ってるのは若いイケメン韓国人
のキム君。
今日の宿泊予定地、バンブー(2310m)に到着。地名どおり周辺には竹が多かった。
二日前に、ジュースを買いに立ち寄ったゲストハウスに泊まることにした。
「なぜこの子の母さんも連れてこなかったんだい?」と尋ねてきた
肝っ玉母さんみたいなおばさんが、とてもフレンドリーで優しかったからだ。
雨はまだ止む気配はなく、気温はかなり低かった。
昨日もシャワーを浴びていなかったので、今日はどうしようかと思案していると、
となりの部屋の白人が、離れのシャワー室から大声で叫びながら戻ってきて、
震えながら母さんに抗議しているのが聞こえてきて、止めておくことにした。
世界一周、4ヶ月目。大阪出身の25才、田村くんと。二人のこれからが楽しみである。もちろん
私自身も彼らと同じく、自分次第で人生を変えていけるチカラがまだあるはず。オヤジも頑張ろ。
ゲストハウスの食堂で、世界一周中の青年に出会った。
ポカラの街で出会った、初老の日本人トレッカーに是非行くべきだとオススメされて、
街で道具を安く買いそろえて、単独でこの山域にやって来たという。
ほとんど山の経験がないという彼の無鉄砲な行動力が、眩しくて微笑ましかった。
(彼のFaceBookによると、この後、あわや遭難しかけたり高山病に罹ったり大変だった
らしい。彼にあげた高山病の薬が役に立ったようで、少し得意気な気分になった。)
焚き火を囲んで、順番にアドリブっぽい唄を回す地元のガイドやポーターたち。エッチな歌詞も
時にはあるのだろう、ときおり女性連中が色めきはしゃいでいた。ニヤ~とイヤラシイ顔で歌っている
男たち、酒が深くなると私もそんな顔になるらしいが・・・
夕食の後、いやな寒気を感じた私は部屋で寝袋にもぐり、うつらうつらとしていたが
息子は食堂で、世界一周中の田村君にいろんなエピソードを聞かせてもらったり、
旅の写真を見せてもらったらしい。
「僕も将来、世界一周してみようかな」と嬉しそうな顔で息子が言った。
そんな息子の言葉が聞けて、私もとても嬉しかった。田村くんありがとう。
浅い眠りのなかで、どこかでパーン!パーン!と花火のような音があがり、
その度に、男達の奇声があがる。
こんな山のなかで花火?ギターの伴奏とネパール語の歌も聞こえてくる。
となりのベッドを見ると、まだ息子は外にいるようだ。もう夜の9時を回っている。
少し心配になり、息子を探しにヘッドランプを点けて外に出た。
雨はあがっていたが、冷え込みがキツく、星もまったく見えない。
少し離れたところで、地元の男女が焚き火を囲んで宴会をしていた。
ときおり火の中でパーン!と竹が弾け、火の粉が空に舞い上がる。
遠慮がちに遠巻きから眺めていると、焚き火を囲んだ椅子に座ってる息子らしき姿が見えた。
なかなか行動力がありやがるなぁと、親バカながらまた嬉しくなってしまった。
後日に、息子が履いていたトレッキングパンツに溶けた穴を発見したが(笑)
次号につづく!
2013年04月30日
ネパールへの旅 vol.16 アンナプルナB・C~バンブー
3月10日(日)
ヒマラヤの山々が赤く染まるところを見るために、AM5:00起床。
室温は2℃、高度と乾燥の為か実際の温度より寒さを感じる、ノドの痛みもキツイ。
残念ながら赤く染まらなかったが、朝日は徐々に山を照らしていった。
私はヌードル入りのガーリックスープを、息子は野菜入りの韓国辛ラーメン。あと野菜入りの
焼き飯をシェアして食べた。この後、親子ともに野菜辛ラーメンブームになる。
国境なき医師団に属し、下山後アフガニスタンに帰るDr.インさんと!親切で男らしい紳士だった。
英語ができないのを一番悔やんだ相手、インさんにもっと色んな話を聞きたかった・・・。
B・Cから見たマチャプチャレ。シヴァ神に関連する特に神聖な山として、地元住民によって
崇敬されているという。
あいかわらず、今朝もぶっきらぼうな息子だが、表情と口調が昨日までより柔らかい。
私らは永遠に和気あいあいとした親子にはなれないかもしれないが、こんな感じも悪くない。
二人でここに来てよかったと、初めて思えた。
強烈な日差しのなかを、ふもとに向かって出発。雪の白と空の青が眩しい。
昨日はガスで見えなかった景色が、壮大に目の前に広がっていた。
聖峰マチャプチャレと太陽の方角に向かって、私達は歩いている。
ポカラでこの山に一目惚れしてから、心を奪われたまま。見る度に「ははぁ~!」と
ひれ伏して祈りたくなる。
「なあ、俺の目標が決まったよ」 「難しいやろけど、いつかあの山に登ってやろうと思う」
テンションがあがっていた私は、思い切ってこんな恥ずかしい事を宣言してしまった。
しかしとなりを歩く息子は無反応・・・。おい、なんか言うてくれよ!(笑)
少し調子にのりすぎてしまったか。(^_^;)
(後日調べてみると、なんとマチャプチャレは未踏峰だった。この現代においても!
神様が住まれている神聖な山という事で、登頂は禁じられているという)
マチャプチャレB・Cに到着、昨日登った方面を撮る。こんなに見渡しがいい場所だったとは!
次号につづく・・・
2013年04月27日
ネパールへの旅 vol.15 アンナプルナ・ベースキャンプ
3月9日(土)
ときおり強い風が吹き、顔に細かい氷の粒があたってくる。
白いガスは少しずつ薄らいできた、高度はもう4000mを越えている。
ゴールはまだ見えないが、もうそんなに遠くないところを歩いてるはずだ。
すぐ息があがってしまうのは相変わらずだが、自分が思ってたより力強く登って行ける。
後ろを振り返ると、いつもどおりの淡々とした表情と足取りで息子が歩いてくる。
二人きりで白い世界の中を、黙々と歩く。ざくざくと雪を踏む音と互いの呼吸音。
「なんやかんや言っても、俺らは一緒にここにいるんやな」
なぜか急に、ふたりで今こんなところにいる事がとても不思議な気がしてきた。
私の思いつきに付き合わせて、こんなところまで連れて来てしまったんやな。
文句を言いながらも、よく付いて来てくれたもんだ。と感慨深くなった。
そう考えると、生意気な息子がなにやら健気に思えてきた・・。ほんのすこしだけやけど(笑)
やがて薄もやの向こうにゲストハウスが現れ、あっけなく無事ゴールにたどり着いた。
思ったより感動はないが、それは予想していたことで、私はいつもそんな具合なのだ。
とうとう来たなという達成感をじんわりと感じながら、息子と握手をかわした。
ゲストハウスの部屋の前で、雲の間から、山の先端を覗かせているのが聖峰マチャプチャレ。
チェックインしたゲストハウスのオーナーは厨房で忙しく料理をしていた。
到着した興奮でハイテンションな白人たちで食堂は占拠されていた、すごい熱気で、
みんないい笑顔をしてる。
オーナーは無愛想に、敷地の奥にあるもうひとつのゲストハウスを指差した。
そちらも彼の経営だと言う。
離れのゲストハウスは、若いネパール人スタッフ達にすべてをまかせていた。
そしてどうやら、こちらをアジア人専用にしているようだ。
オーナーの意図はよくわからないが、人が少なく静かなこちらの方が私にはとても有難い。
ゲストハウスの飼い犬だろう、賢そうでおとなしい犬だった。
気温は低いが、空気はとても乾燥していた。部屋の裏には雪がぎっしり、中は冷蔵庫状態だった。
「なぁ詩、そろそろ聞かせてくれへんか」 とベッドに座る息子に言った。話す息が白い。
息子の名前は、詩朗(ウタロウ)という。名づけ親は、当時24才だった私だ。
やっと訥々と話し始めた息子を見ていると、それだけで少し嬉しく感じてしまった。
ときおり言葉につまりながら話す、息子の思いを全部聞いた。
細かい事もいくつかあったが、彼の不満の大本の原因は、
「威圧的で命令的な、私の態度と言動」だと言う。
私をそういう風にさせるのはそっちが・・・という思いもあったが、
わたしの心のどこかで、私がお前を養っているのにとか、
私の稼ぎでこんな旅もできているのにとかいった、上から目線の思いがあったのは確かだ。
息子の言動と態度にやさしさが感じられないからと、私まで対抗してしまっていた。
彼なりに色々頑張って、緊張して、チャレンジして疲れてたのだろう。
まず私の方から、もっと気遣いのある接し方をするべきだったと思う。
息子に対する自分を客観視できたら、自分のいたらなさも良くわかった。
「いろいろゴメンな、これから気をつける」と息子に謝った。もうこれ以上ギスギスした空気で
一緒にいることがツライ、仲良くまでとは思わないが以前の普通に戻りたかった。
最後にナミダ声になりながら「二人しかいない山の中やのに、暴力はやめてほしい」
と言われ、深く謝った。申し訳ない。
「俺らはふたりとも言葉が足らなさすぎやったと思う」、照れや家族間の甘えか。
もっときちんと言葉にだしてお互いの気持ちを伝えていこうと息子に言った。
「正直しんどかった。これからは楽しい旅にしような」
こうしてひとまず、親子ゲンカは一件落着した。
しょうもない争いを、長らく引っぱってスイマセンでした<(_ _)>
話し合いが終わって外にでると、ガスが消えさり、8000mの圧倒的な姿が。
めずらしい地元ネパールのトレッカー達、高校生みたいにはしゃいでいてカワイかった。
私達の確執が消え去ると、タイミングよくガスも消え去り、太陽も少しのぞけた。
晴れ晴れした心で、あらためて360度に広がるヒマラヤを眺める。
やっと神々の山と向かえ合えた気がする。
月並みな表現だけど、そこは想像したとおり言葉でも写真でも表せない圧倒的な風景だった。
息子は、白人トレッカーが集まる食堂が気に入ったみたいで、一人でそちらに行っている。
あんな英語の嵐の中によくいてられるもんだ、頼もしくて嬉しいことだけど。
次号につづく・・・
2013年04月25日
ネパールへの旅 vol.14 ヒマラヤ~アンナプルナB・C
3月9日(土)
こっちにも色々と言いたい事がある、と脚を蹴られた息子が言った。
ゲストハウスに着いたら話すとの事。
いつでも何でも聞いたるよ、と私。突然なんか妙に冷めてしまった。
暴力で脅かして少しはスッキリしたんやろな、とむなしく自己嫌悪する。
マチャプチャレB・Cのゲストハウスが薄っすらと見えている。本格的に雪山になってきた。
酸素が薄くなってきてる影響か、前日までとは違うハードなルートのせいか、
約800mの高低差を登るのが予想以上に苦しい。
ツアー登山などでは、一日に約500mほど登る日程で組んでいる。
高山病予防にもそのくらいがベストらしい。
それと比較すると800mでもそこそこの高度を稼いでいるのだが・・・。
少し登ってはゼエゼエと立ち止まる私と、あまり疲れた様子もない息子。
この冬には、ヒマラヤを想定して、奈良の雪山に通ってカラダを鍛えてきた。
出発前の日曜にも、息子と六十谷の山を歩き、体力的には同等のレベルくらいには
なってるんじゃないかと思っていたが、やはり若さのパワーは恐るべしである。
最後あたりはかなり雪深くなった道を、やっとの思いでマチャプチャレB・C(3700m)に到着!
ヨーロッパ、中国、韓国、日本、ネパール。食堂は興奮気味のトレッカー達でにぎやかだった。
あたりに白く煙るガスのために、神々の山、聖峰マチャプチャレは全く見えない。
ポカラのゲストハウスの屋上で、この聖峰を初めて見たときから
その峻厳な容姿に心を奪われていた。男なら誰でも憧れるであろうカッコよさである。
当初の宿泊予定地はここだったのだが、このままアンナプルナB・Cまで行けないか思案する。
地元のポーターと話すと、この雪では2~3時間くらいは必要だろうとの事。
地図をみれば、迷う心配もなさそうな尾根づたいの一本道だ。高低差はあと430m。
Annapurna Base Camp (South) 4130mが目指すゴール地点!
心配なのは、日没までの時間があまり残っていない事。今は午後2時すぎである。
さらにこの視界をさえぎるガスと、私の残り少ない体力。条件的にかなり難しそうだ。
やはり今日はここに泊まる事にしようと息子に告げる。
ゲストハウスの庭に、前日に顔見知りになった韓国人トレッカー達が座っていた。
昼食を取るという彼らと共に食堂に入り、砂糖いっぱいの熱いジンジャーティーを飲んだ。
ポーターとガイドを連れた麻酔科医のインさんは、韓国からではなく、
アフガニスタンからやってきたという。
現地で活躍するいわゆる「国境なき医師団」のメンバーだった。
今朝も出発前のインさんにお願いして、ドルをルピーにこころよく両替してもらった。
とても紳士的で、キリッとした顔立ちのナイスガイである。
ルピーがなければ、この山中ではヤバイところだったのでホントに大助かりだったのだ。
中国から来た女性二人組と白人男性のグループに話かけられた息子が拙い英語で頑張っている。
色んな国籍で囲まれた賑やかなテーブルで、スニッカーズをかじり、粉末アミノ酸を補給した。
どうやらインさん一行は、この後アンナプルナB・Cに向け出発すると言う。
インさんに雇われた地元のガイドやポーターが、今からでもA・B・Cまで行けると
判断しているということだ。この天候のコンディションでも。
へんな負けん気が出たわけじゃないが、インさん達が行くのなら私たちも行きたくなってきた。
休憩して、栄養を補給したせいか、身体にまたチカラが甦ってきている。
「よっしゃ!やっぱりアンナプルナまで行くか!」
突然、張りきりだした親父に、息子が眼鏡を指で上げクールに聞いてくる。
「さっきまでフラフラやったのに、そんなんで行けんの?」
俄然ヤル気になってしまったね。 「体力戻ったよ、よし出発しよか」
ゲストハウスを出発し、着け方を教えながら、山に来て初めてアイゼンと
足首から雪が入ってくるのを防ぐスパッツを装着した。
この時のためだけに、旅行中これらの道具を持ち歩いてきたのだ。
いよいよ旅のハイライトがやってきた。
しかし白いガスで覆われて何も見えない進行方向を仰ぎ見ると、
さすがに不安な気持ちになってくる・・・。
「なぁ、行くん止めとけへん?」と横で息子が言う。
「さっき、中国の二人組が今日は危ないから止めたほうがいいって言ってたよ」
そんな事を息子に言ってたのか、私には話しかけても来なかったのに・・・。
「こんだけくっきり足跡が付いてたら、たとえガスで1mくらいしか見えなくなっても大丈夫だ」
「いざ無理となったら、来た道は戻ってここに帰って来よう」
「だいじょうぶやから、俺を信用してくれ」
「別に無理して行かんでいいやん」と息子、確かにそう言われればそのとおりだ。
少し強引なのは自分でも自覚している、確実に安全に行くなら明日にすればいい。
しかし色んな状況を考えた上でも、危険は少ないと判断した自分の考えを尊重したい。
少ないキャリアだが、これまでの雪山の経験から照らし合わせても大丈夫だと思える。
そして結局は、なによりも少しどきどきした冒険心を味わいたかったのだ。
実際、この現状にわくわくした気持ちを感じていた。舞台はヒマラヤなのだ。
じつはそれが大方の理由であったと思う。
ただそれをストレートに息子に伝える事ができなくて、
もっともらしい事を言って息子を説得していただけなのだ。
安全、安全と口うるさく言っていた立場上、苦しい説得工作になってしまう。
「行くの怖いか?」 我ながらずるい事を聞いてしまったもんだ(笑)。
「別に怖いって言ってないやん、二人組にあんな事言われたから気になるやろ」
「よし行こう!」
次号につづく・・・
2013年04月23日
ネパールへの旅 vol.13 ヒマラヤ~アンナプルナB・C
3月9日(土)
白い雲の中を歩いているようで、周りの山々はまったく見えない。
雪に残る足跡を頼りにして、最終目的地アンナプルナ・ベース・キャンプを目指していた。
ときおり後ろを振り返って、不服と不安の表情を浮かべて歩く息子を見る。
高度計によるともうすぐ4000mを越える、時刻は夕方4時になろうとしていた。
すこしは白いガスも薄くなってきたような気がするが・・・
今日の予定は、ヒマラヤ(2920m)~マチャプチャレB・C(3700m)
約4時間ほどの道のりである。
前日、前々日の行程がハード過ぎた事や、念のための高度順化などを考慮して決めた。
朝はゆっくりめに10時出発、ダイアモックス一錠とアリナミンA三錠、粉末のアミノ酸を
ゲストハウスで売ってもらった煮沸水で飲みこんだ。
どうやら風邪はほとんど治ったようである。風邪薬を持ってこなかったのは迂闊だったが、
ひたすら横になって寝まくったのが良かったみたいだ。
残雪と氷がまざる川原を遡上する、滑りやすい足元に神経を使う。
山に入ってから特に、息子との関係が悪化したせいか、
「親と子」について過去の色んな事が、とりとめもなく頭に浮かんでくる。
昼間歩いている時も、眠れず寝袋にくるまってる時も、ふと考えてしまっている。
「自分が今の息子くらいの歳だった時、どんな子供だったのだろう?」
世の中をなめきって、周りの大人や自分の人生まで馬鹿にして息巻いてた
イヤなイヤ~なガキだった。薄っぺらな知識や屁理屈を振り回して悦にいってた。
間違いなく性質の悪いガキだった。最近もタチが悪いが(笑)
できることならタイムスリップして、当時の自分をこっぴどく説教してあげたい。
思い出すのも恥ずかしい。人生の暗黒時代をできることなら消去してしまいたい。
「18くらいの時、自分は母親にどう接していて、どんな思いをさせていたのだろう?」
そんなに酷い息子ではなかったと思うが、突飛な行動や夜中までバイクを乗り回したり
していた時期で、かなり心配をかけていたのは間違いない。
徹底的に自己主義で、ロックかぶれのたわけ者だった。
我儘し放題の私に対しても、何ひとつ咎めることもなかった優しい母親に、ある時
「あんたは、怖いくらいに人に対してすごく冷たいところがある」と静かに言われた。
思ってもみない、突然意表をつかれた言葉だったので、今も強く記憶に残っている。
その時の母親のうつむいて目をそらした残念そうな表情も。
母から見た私は、実際にそうだったんだろうなと、今は解りすぎるくらい解っている。
一生抱えていく、自分という人間の本質を言い当てられていたとも思える。
悲しい現実だが、仕方がない。
自分の過去を思い出し、考えれば考えるほど、今の息子のほうが何百倍もましな
子供なんだという結論に至る。
不器用すぎるとこも、ズルさのない事の裏返しだとも思う。誠実でバカ正直なのだ。
わたしはもっと計算高く小狡く、大人をだまして自分の利を得ていたが・・・。
そして父と私との過去の関係が、私と息子との関係にどう影響しているのか・・・
きりがないので、この辺でやめておこう。
とにかくそんな事ばかりウジウジと考えていたのだ、壮大なヒマラヤの山中で!
父であるわたしの方が歩み寄るべきだというのは、頭や心ではわかってはいるが、
現実、反抗的な息子を前にすると、その瞬間、単純にムカついてしまう・・・。
中学、高校などの先生やスポーツ指導者の方々の忍耐強さを心から尊敬します!
とうとうヒマラヤのジャイアンツ達が眼の前に近づいてきた!
雪解け水はやがてインド洋に?、ヒマラヤも昔は海の底だったという。一年で1cm盛り上がるとして
計算すると80万年で8000mに、一億年なら1000km!頂上は宇宙空間だ。一億年って永いな。
息子には、ほとんど雪山の経験がない。
大胆に雪や氷の斜面を歩いてくる彼を見てると、怖くてしょうがない。
濡れた階段とは違い、一度足を滑らすと止まらず転落していく。
こまめにアイゼンの付け外しをするべきか迷ったが、また嫌がるであろう息子に
承諾さすのがめんどうだった。揉めるとカラダがどっと疲れてしまうのだ。
滑ると危険そうな場所では、必要以上に一歩ずつ踏みしめながら歩く作戦をとった。
腰を落として、がに股でのろのろと雪の斜面を下る。後ろで息子が苛ついてるような
気配を感じるが仕方がない、ここでのミスは致命傷になる。死亡する可能性も高い。
危険な箇所を抜けると、見晴らしのいい広い川原に出たので小休止をとる事にした。
そろそろ高度の影響か、いつもより息がきれるのが早くなっている気がする。
私が考える山においての休憩時間とは、装備の整理やチェック、
服装や靴ひもの調節、水分や即効性のある栄養の補給、ストレッチetc...
などの為の時間であるが、息子にとっては学校の休憩時間に近い感覚のようだ。
すこし離れた川原に行き、川を見ながら座っている。
疎ましがられるので、休憩ごとにこまかく指示するのをなるべくガマンをしていたが、
川原の彼を呼び寄せ、出発時間までにザックの底に入れているアイゼンを
取り出しやすいところに入れ直すようにと言った。
案の定、そんな必要ないやろ!と噛みついてくる息子・・・。
前方に雪渓が見えているから、アイゼンを使う可能性がある。雪のうえで荷物を
取り出すのは面倒で危険だからと説明したが、それでも不服そうな息子を見て苛立ち、
「とにかく早く用意せぇ!」ときつく言ってしまう。なぜいちいち私に歯向かってくる?
息子にキレて逆上した後、急に周囲が曇りだしガスも発生しはじめた。
息子の雪の紫外線対策として、使い捨てコンタクトとサングラスを用意していたが、
メガネのまま行くという息子の意思に従った。
山岳書によると、高所と雪の紫外線は強烈だという話で、雪盲という症状になると
痛みと涙で目が開けれない状態になるという。大丈夫だろうか?
「なるべく薄目にして、眼を守りなよ」 振りかえって息子に言う。無言・・・。
「薄目にしとかな眼ヤバイで」 あぁとめんどくさそうにつぶやく息子、
「なんやねん、その態度はこら」
「わかってるってゆうてるやろ!」
息子のニラんでくる眼を見て、とうとう私のほうが手を出してしまった。
胸倉をつかみに行く私の手を息子は払いのける、足元に軽くローキックをかます。
別に本気でキレているわけじゃないが、こいつを無性に懲らしめたかった。
もう父と子などは関係なかったと思う。
無言でしばらくにらみあい、最悪のムードでまた歩きはじめた。
次号につづく・・・
2013年04月19日
ネパールへの旅 vol.12 チョムロン~ヒマラヤ
3月8日(金)
山側のゲストハウスの方が良さそうだったので、値段を聞いてみる事にした。
外のテーブルに経営者のファミリーらしきグループが座っている。
子供も嫁らしき人も全員、軽く悪人づらなのが気になったが、
「エク ラートコ カティ?」 一泊いくらですか?
とジャイアンみたいなオヤジにネパール語で聞いてみた。
「○△◆×・・・・!」 でかい声でオヤジが言う。おそらく数字なのはわかるのだが・・・
「○△◆×・・・・!」 あかん全くダメだ! 仕方がない 「ハウ マッチ?」と聞くと。
なにやら非難めいた事を大声で言ってきた、ネパール語なので全くわからない。
オヤジはあきれたような馬鹿にしたようなジェスチャーで、テーブルに居る家族達に
なにやら言っている。その言葉を聞き、皆がいじわるそうな顔で私を見て笑っている。
どうやら「ネパール語で話かけてきたから答えたのに、何だこいつは?」ってとこか?
くそ!なんだこいつらは! お前の方言がキツいんじゃないか?そんな数字知らんぞ!
ネパール語で聞く方が喜んでくれると思ったから言ったのに、馬鹿にしやがって!
くやしかったが結局、部屋がいい感じだったのと温水シャワーがあったので
一泊300ルピーのジャイアンのゲストハウスにしてしまった。
夜はかなり冷えた、高度が上がるごとに空気も乾燥してきてノドがつらくなっていく。
山の高度が上がるのに比例して、煮沸した水や食べ物の値段が高くなっていくが、
宿泊代はどこも一泊300ルピーだった。
覚悟はしていたが、またぬるま湯のシャワーを叫びながら浴びる。
トレッキングに来ている人たちの7~8割は白人たちで、山ですれちがってもゲストハウスに
いても陽気で明るい人たちが多い。とにかく楽しそうに良くしゃべってるが、いやな感じはしない。
山で挨拶をかわす時の、彼らの笑顔はステキだった。くやしいが粋でカッコいいのだ!
あの笑顔とサービス精神は見習いたいと思わされた。
あとはほとんどが韓国人で少しだけ中国人、山で出会った日本人は結局男子二人だけだった。
雄大な景色を見ながら、パンツや靴下を洗った。写真の上のほうの斜面には雪が残っていた。
息子は、外に行ってくると言ったままずっと部屋に戻ってこない。
さすがに心配になり周辺を探すと、少し離れた岩場に寝転んで音楽を聴いていた。
ひとりの時間も欲しいんだろな、と思う。悪いが無事に山を降りるまでガマンしてくれな。
父だってホントはうるさく小言ばかり言いたくないんだ。安全面に問題なければいくらでも
好きなようにさせてあげたいんだが・・・。
食堂や外のテーブルでは、白人グループがにぎやかに談笑している。
私らに対しては、ツンとしてえらく愛想の悪い宿のファミリーたちなのだが、
大きな声で英語をしゃべる白人たちには、気後れしたような弱気な顔つきになっている。
アジア人には同属嫌悪なのか、白人コンプレックスなのか。見ていてウンザリだ。
こんな風に物事を見てしまうのは、ココロが荒んでる証拠だろうな。
色んな事がうまくやれない、自分のことも嫌になってくる。
今日はいろいろと疲れてしまった(-_-;)
山にいる間にいつも飲んでいた刻んだ生姜入りのジンジャーティー、息子は生レモンたっぷりの
レモンティー。山では砂糖を大量に入れて飲む。名物だというアップルロールを食べたがハズレ。
昨日から高山病予防のために、ダイアモックスという薬を飲んでいる。
意識的に水分も多くとるほうがいいらしいので、多い目に飲む。
明日からはとうとう3000mオーバーの世界に入っていく、
二人にとって、初めてのステージである。
登山道もだんだんと険しくなってきているし、雪や氷も現れるだろう。
ノドの痛みは少しあるが、風邪は回復してきてるようだ。
早い時間に寝袋にくるまりベッドに横になる、
明日にそなえて回復しなければ・・・。
ではまた次回!
2013年04月18日
ネパールへの旅 vol.11 チョムロン~ヒマラヤ
3月8日(金)
朝7時頃にゲストハウスを出発。疲れがとれていないのか、けっこう足が重い。
谷を挟んで向こうの山の斜面に、目的地に向かうルートと小さい集落が見えている。
川に架かる吊橋を渡るために、いきなり400mほども下らなければならない。
そしてまた600mほど登ってSinuwa(2340m)を通過して、また少し下って
Banboo(2190m)を経て、Himalaya(2920m)が今日の宿泊予定地である。
Chhomrong(2170m)~Himalaya(2920m)、750mの高低差であるが、
今こうしてざっくり計算してみたら、約550m下り、1300mほど登らなくてはならない。
ちなみに和歌山市内から見えている六十谷方面の山々は3~400mの登りだ。
もちろん細かいアップダウンはもっとある訳だから、計画としてはハード過ぎである。
そして前日の足の疲れと風邪気味のカラダ、あの日はしんどかったはずだ。
チョムロンより奥に行くと、ほとんど民家はなく、ゲストハウスが点在するだけになる。
昨夜は、カラダが疲れているはずなのになぜか深く眠れず、
何回も目が覚めては、枕もとの水を飲み咽を潤して、ときおりノド飴を舐めた。
となりにベッドの息子も、しきりに寝袋の中で体勢を動かしていたから、
彼もあまり眠れていないのだろう。
昨夜相談して決めた起床時間は5:00だったが、やはり息子は起きてこない。
仕方なく無理に起こすのだが、予想通りの不機嫌な態度に今日も思いやられる・・・。
食堂で朝食をオーダーして、お互い無言で料理を待つ。
向かいには、俯いてダルそうに座っている息子がいて。後ろの窓からは、憧れだった
ヒマラヤの山々が早朝の光に輝いてるのが見える。
心ときめく場所にいるはずなのに、なんでこんな重たい気分なんだ?
きっかけは何だったか忘れてしまったが、とうとう息子に声を荒げキレてしまった。
「お前、ええかげんにせえよ!こらっ!」
・・・この後の聞き苦しい言葉を訳すると。
「なぜ、私に対してそんな態度をとるのか?」
「初めての場所と慣れない言葉で、私なりにテンパリながら頑張ってるのに、
なぜそんなに非協力的なのか?」というような事を言ったと思う。
息子は感情が高まると言葉が出なくなってしまう、小さい子供のときからそうだった。
「辛くても言葉にせんかったら、相手にはわからんで・・・」そんなような意味の事を、
今までに何回か彼に言った覚えがある。
息子が私に何か伝えたい事があるのは、わかる。
だがコントロールできず涙を流しているのだ。
「なんか言いたい事があるんやったら、いまここで全部聞かせてくれよ」と
高ぶる息子に追い打ちをかける。
息子は、来月から和歌山を出て、厳しい環境で訓練が始まる。
これまでの学校や家とは違い、言葉にせずとも周りが意思を汲み取ってくれる事は、
まず期待はできない。
不器用な言葉でもいいから、相手に自分の言いたい事を伝える努力をしなければ、
この先の世の中を渡って行くのが難しいんじゃないかと心配なのだ。
ようやく息子が口を開いた。「今はムリやから、落ち着いたらまた言う」
この場で本音で話し合って、謝ることがあれば謝り、解決できることは全部かたずけて
すっきりとした気分でヒマラヤの山々にあらためて向かい合いたかったが、
これ以上無理強いはせず、彼なりの意思表示を尊重して受け入れた。
しかし山を歩きながらも、息子が言いたかった事が気になってしまい、
悶々としながら、息をあえいで急坂を登る私・・・。
1~2時間歩いた頃だっただろうか「まだ落ちつかんの?」と聞くと。
「何回言わすんなよ!落ちついたら言うっていってんやろが!」
逆ギレしてきた息子に、少し驚きムカつきやがて悲しくなってきた。
あぁこんなヒマラヤになるとは! (-_-;)
読んでくださってる皆さん、しょうもない親子ゲンカをだらだら書いてスイマセン。
Sinuwa近辺にて。犬とじゃれてる息子
息子が高校に入学したとき、ゲーム機とひきかえに何か運動部に入るという約束をした。
漫画とアニメとゲーム三昧だったので、このままでは体力的にも精神的にもヤバイと思ったからだ。
じつは私も中学時代は漫画とファミコン漬けの毎日で、そんな不健康な生活のせいか、
しまいには肩こりと腰痛に悩まされる悲痛な状態になってしまった。
やはり親子は似るのか(ーー;)
高校に入ると、筋力を付けるのに一番効果的そうなボート部に入部した。
情けないカラダも、ひたすら地味な筋トレとランニングのおかげで丈夫になった。
社会に出てからも、勉強よりあのトレーニングのほうが役に立ったと思う。
最初は私の勧める山岳部にしぶしぶ入った息子も、
いい仲間ができどうやら楽しい三年間だったようだ。
山岳部でアルプス合宿に行ったときの話を息子に聞いていて、
「学校では優しい顧問の先生が、山にいくと別人のように厳しくなる」
というようなことを言っていた事をヒマラヤに来てまた思い出した。
その話を息子から聞いたとき、遠足気分であろう生徒たちを連れて、
厳しい剣岳や穂高に引率する先生の苦労と心労が目に浮かんだ。
一歩間違えば命を落とす山に、経験が少なくリスクに対する
意識も低い高校生たちを何人も連れて登る。ものすごく大変な事だと思う。
私ならお金を貰ってもご免被りたいのに、ほぼボランティアで引率する先生方の
ご厚意には、想像するだけで本当に頭が下がる。
息子達は、山で貴重な経験をさせてもらったと思う。
彼らにその有り難味や先生方の苦労がわかるのはもっと先のことだろうが。
モディ・コーラという名前の川に沿って、高度を上げていく。だんだんと山深くなってきた。
今回のトレッキングでは、もちろん私がリーダーだった。
年齢や立場を除いても、山での経験やキャリアなどは私のほうが圧倒的に多いからだ。
息子には、責任者として計画を立てたり、皆を引率したり、単独で山に入った経験はない。
息子は、私の山のキャリアを全く知らないし興味もなかっただろう。
子供の頃から、遊び好きの父親のだらしない姿を見てきた彼からすれば、
私に対して、リーダーとしてリスペクトや信頼がないのは仕方がなかったと思うが、
山においての安全管理の面では実際かなり困った。
私には、四月から社会人としての生活をスタートする息子を
無事に日本に送り帰す義務がある。私と公の両方において。
保険に加入してきたとはいえ、事故があった時の搬送手段や病院の設備などが
日本とはまったく違い、手術や入院などになると事態は深刻である。
すこし安全面に神経質になりすぎていた私が、息子にはかなりウザかったとは思うが、
慎重すぎる事自体は、間違ってはいなかったと今でも思う。
息子は去年の夏、よく友達と行っていた六十谷のなんてない山道で転び、
運悪く尖った岩に膝を打ちつけてしまった。
救急車で運ばれ、手術をし二週間ほど入院した。幸いひざはほぼ完治したが、
なんてない山道の方が、気が緩んで逆に危険なのは登山本にもよく書いてある事だ。
さて話を、ヒマラヤトレッキングに戻そう。
息子は、思いっきり膝に負担がかかるような下り方をしていた。
一日の登山ならともかく、長期の縦走では大丈夫だろうかと不安だったので、
2,3度、膝に負担が少ない歩き方をアドバイスしたが無駄だった。
仕方ないと、そこは目を瞑った。痛みが出てければ、また彼なりに考えるだろう。
雨に濡れた石の階段を降りている時は、靴底を滑らさないように慎重に歩くのだが、
息子はときおり底を滑らして降りている、滑ることを予測しているから大丈夫なのは分かる。
なるべく滑らさないように注意するが、聞いてくれない。ちゃんと降りてるやろ!と息子。
私からすれば不安で見ているのがガマンできない、不用意なリスクは少しでも避けたい。
万一足首を軽く捻挫しただけで、この山がすべて終わってしまうかもしれないのだ。
雨の中、立ち止まり彼の足元を指差しながら「絶対に滑らすな!」とキツく言ってしまう。
お互い無言でにらみ合い、気まずい空気でまた歩きだした。
登山道の崖側が、ごくたまに崩壊している箇所があった。
私の斜めうしろで崖側の端を歩く息子に「崖側を歩くな!」と
振り向かずにキツく冷たく言い放つ。
カラダも疲れてきて、何かを言って腹を立てるのはもういやだった。
必要最小限の会話だけにしようと、しかたなく考えていた。
だが彼は崖側を歩くのを止めない・・・もうええわ、勝手にせいや。
「どこ歩いてもええわ!好きに歩けよ」 がまんの効かないリーダーだった(笑)
Himalaya(2920m) ゲストハウスは2軒。左に写っている宿の家族に値段をたずねたのだが・・。
疲れて最後はフラフラになりながら、なんとかHimalayaに到着!
左右に、二軒あるゲストハウスをどちらにしようか見てみる事にした・・・。
次回につづく!
2013年04月16日
ネパールへの旅 vol.10 チョムロン~ヒマラヤ
3月8日(金)
現地で書いていた日記を読みかえしてみても、この日の文章は
愚痴と弱音のマイナスオーラに満ちている。ええ年こいて情けない。
風邪や前日の疲れでカラダが、今までの旅や不自由なコミュニケーションで
ココロがかなり弱ってたのかも知れない。今から思えばの事だが・・・
ポカラに向かうバスに乗った日あたりから、息子の態度がおかしいのだが
はっきりとした原因は解らない。
まぁ元々日本を出発したときから、何を言っても冷めた態度と言動だったのだが。
この旅は彼にとって初めての異国で、言葉が通じない緊張感や遠慮のない
ネパール人達の視線、そして旅慣れずあまり頼りにならない父。
もともとナイーブな息子にとってはかなりハードな環境であるはずで、
そんな諸々の旅の疲れが息子を不機嫌にしているのだろうか?と考える。
「旅の疲れ」と言えば、もうひとつ忘れられない出来事がある。
ポカラのゲストハウスの食堂でパスタを待って座っていたところに、
荷物を預けて出かけていた若い日本人の女子ふたりが帰って来た。
昨夜、星を見に屋上に行った時に、先に居た彼女たちとお互い顔の見えない
暗闇のなかで挨拶をした。そのときは確かごく普通な感じだったのだが・・・。
「こんにちは」、テーブルの横に置いてある荷物をまとめる彼女たちに言った。
「こんにちは」とひとりが笑顔で返してくれる。
「ん?」もうひとりの女子が、しかめっ面で思いっきり顔を横にそむけたような
気がするが・・・?なんだ?
「バンダ」でタクシーが走っていないため、彼女たちは空港まで重い荷物を
背負って歩いて行くという。宿の夫妻にその事を嘆いている彼女たち。
そして私は「カトマンズまで飛行機ですか、暑い中たいへんですね」みたいな事を
言ったと思う。
「そうなんですよ~」と笑顔の女子、もうひとりは・・・また苦虫を噛み潰したような
表情で顔をそむけた。今度は気のせいじゃない、あまりにもあからさまだ。
おいおい!なにっ?戸惑う私。なにか悪い事言ったか?俺?
こんなに目の前の女性に嫌な顔をされたのは、人生初である。
あまりにもストレート!もしかして腹の具合か?たぶん違う、原因は私だ。
こんな反応をされるのは、自覚ゼロだがやはり私がオッサンになってるからか?
これから年をとっていくと、若い女子に気軽に話しかけたらこんな仕打ちも
ちょくちょく味わうことになるんだろうか?
うろたえながら色々なことを考え、「パスタができたら呼んでください」
夫妻に言って、逃げるように階段をおりて部屋に帰った。
息子とモメて気まずくなって食堂に上がったのだが、上でも若い女子に
やられてしまった(笑) となりのベッドでは、息子が背をむけて寝ころんでいる。
それを見ながら、息子といい、さっきの女子といい、「なぜそんな?」と考えた。
「旅の疲れ」、結論はそれに至った。主な原因は「旅の疲れ」であって私はその
とばっちりを食らっているのだと!わたしが「大人」だから八つ当たりを喰らってるのだ!
《 余談ではあるが、このエピソードをロジェでお客さんたちに語ると「マスターの視線が
きっとエロかったからや!」と一同一致に決め付けられた!
たしかにネパールで会う初めての若い女子、そして愛想の悪い彼女は悲しいことに
けっこうかわいくて巨乳ぎみではあった。
「いきなり胸をじろじろ見たからちゃうの!」とツッこんでくる常連さんたち、
断じてそれはない!と言い切っておいたが、皆ニヤニヤと意地悪な笑いであった。》
彼女達は旅が6日目だと言っていた、明日は日本に帰るらしい。
わたしたちはまだ4日目だが、息子も彼女もそろそろ「旅の疲れ」できっと心に余裕が
なくなってきているのだ。
「大人な私はそれを理解してあげて広い心で接してあげなければ」と・・・
考えがそこに至ったのだが、その時もたぶん今も私には無理な話である。
「ガキはめんどくせぇ!知らん!」これで終わる。開き直るわけじゃないが、
そんなに人間ができてはいないのだ。いつかできるようになるのだろうか?
無理かな、たぶん(笑)
くだらない話で今回は終わってしまいました。スイマセン
次回は山の話で!
食堂の窓からヒマラヤの8000m級が見えている、こんな大いなる場所にいて小さい事でモメたり
気にしたりする私達。あぁ・・
2013年04月12日
ネパールへの旅 vol.9 ナヤプル~チョムロンⅡ
3月7日(木)
突如ジープは止まって、皆が降り始めた。どうやらここが終点のようだ。
山の朝の空気はさわやかだった。
同乗していたガキんちょ達、なかなかイイ面構えである。
さぁいよいよトレッキングのスタート!
ジープで走ってきた道を、そのまま歩いて行けばガンドルンの村に着くはずだ。
「ノー!ノー!・・・・・・!」少し離れた所に座っている男たちが、何やら言っている。
どうやら彼らが指差している、道からそれた細いあぜ道が村へのルートらしい・・・
「こんなん絶対わかるかよ!」
メジャーなトレッキングルートだから、当然ルート標識などがあるものだと思っていた。
結局、今日の目的地チョムロンに着くまで、分岐などにルート標識はひとつもなく
その考えが甘かった事を思い知らされるはめになった。
コーナーを曲がると、いきなり遠くにヒマラヤの山々が!これからあの近くまで歩いて行くのだ。
仔ヤギ?
65000分の1が、いちばん詳細な地図だったので仕方がなく購入したが
地図が大まかすぎて、記載されていない分岐や道もありややこしい。
さっそくGHANDRUK(ガンドルン)の少し手前の川沿いに降りる分岐を見逃し、
村のなかに入ってしまう・・・。
モディ川沿いのNew Bridgeという集落を経由してChommrong(チョムロン)
を目指す予定だったのだが、Kimrongkholagoon経由の山中ルートにやむなく
変更することにした。
「等高線を見ればわかるやろ」と息子は言うのだが、この縮小図では10m単位の起伏など
まったくわからないのだ。
GHANDRUK発~Komrong~Kimrongkholagoon~Romi~Salanpru~Chommrong着
に変更!
Komrongという峠の集落に向かう分岐がわからず、他のグループのガイドや
地元の親子づれに、たどたどしい英語でルートを尋ねてみる。
「ノーガイド、ノーポーター?」心配そうな表情で彼らは聞いてきた。
このトレッキング中に何人に同じ質問をされただろう?、だがそれも無理もない・・。
ガイドを雇えば、ルートも食事も宿泊先の手配もまったく心配がなくなるし、
トレッキングエリア内の最新情報(盗賊やマオイスト、積雪の状態など)を
常に知ることもできる。
よけいな不安がない分、より深く自然や景色を楽しみながら歩けるだろうし、
ガイドから教えてもらう知識で、その土地についてのより深い理解をもたらして
くれるだろう。
そのうえポーターに重い荷物を持ってもらえば、口笛まじりに登って行けそうだ。
だけども、そうなるともう私にとって山に行く意味がほとんどなくなってしまう。
それぞれの山の楽しみ方があり、なにも苦労したからって偉いわけじゃない。
すべては個人の好みの問題だと思う。
自分達だけでルートを決め、その日の宿泊地を決め、重い荷物を担いで登る。
それが私の好みなだけだ。それに付き合う息子には心配をかけただろうが・・・
とかなんとかカッコつけても現実は、道もろくにわからず英語もヤバイ、
困ったジャパニーズやったんやろね(笑)
3~400m登り、川を横切る為に3~400m下り、また3~400m登る。そんな箇所が二回もあった。
せっかく高度を稼いだのに、下るのは精神的につらい!
昼過ぎくらいから小雨がぱらつき雷もなり始めた、変わりやすい天気にさらに山を実感する。
雨対策のザックの防水について、息子と口論になる。
むりやり私の意見を押し付けて、より強固な防水を施したが、結果としてそこまでする必要
はなかった。
息子に対してキツイ物言いになってしまったが、そのときは自分の心も余裕がなかったのか
なにかと反抗的で、こちらの意見を素直に聞いてくれない彼にムカついていたと思う。
雨で気温が下がってきた。夕方5時頃なんとかチョムロンに到着!
初日からけっこう体力的にハードだったが無事着けて一安心、
ここからゴールまではモディ川沿いの一本道だから、迷う心配はほとんどないはずだ。
チョムロン(2170m)のロッジにて、掛け布団はなく寝袋を使って寝る。
外観が感じよさそうだったので、宿の主人らしきオジサンに値段を聞いてみる。
素泊まりで一人300ルピー(約400円)で、温水シャワーもあるとの事。
ふたりとも汗と雨でべちゃべちゃである、シャワーはありがたい。
とりあえず部屋に荷物を降ろし、離れにあるシャワー室を見に行く。
なんやこれ・・・・こんな小さな給湯器は見たことないぞ(-_-;)
予想どおりシャワーキャップからチョロチョロ伝うぬるま湯に奮闘するはめに・・・
寒いっさむっ!カラダに付いた泡を流すのにも苦労しながら浴びる。
うぉーと叫びながら部屋に戻り、あわててカラダを吹く私を息子は冷ややかな目で
見ていたが、十分後、彼も震えて叫びながら部屋にとびこんで来た(笑)
早い夕食を、これは何の料理でしょう?やめといた方がいいんとちゃうと忠告したのだが・・・
ネパールの定番料理、「ダルバートタルカリ」をいただく。ちなみに息子が注文したのは「ドリア」
ダル(豆のスープ) バート(ご飯) タルカリ(おかず) おかわり自由である、全部カレー風味だった。
グルンブレッドまたはチベタンブレッドというらしい、ほんのり甘くて素朴な味で美味し!
咽喉の痛みは治まらず、すこし寒気もする。幸い熱はあまりないと思うのだが
明日からに備えて早いめに寝袋にもぐりこんだ。
19:00頃就寝
次回につづく・・・
2013年04月10日
ネパールへの旅 vol.8 ナヤプル~チョムロン
3月7日(木)
AM5:00 起床
咽の痛みは去ってくれず、やはり風邪を引いてしまったようだ。
このタイミングでツライ事になってしまった・・・(-_-;)
もし今日もバンダが行われるなら、サランコット(1592m)という山を越えて
ダンプスというトレッキング拠点の街まで歩く予定にしている。
AM6:00 知人のタクシードライバーに電話をしてくれてるクリシュナさんの
ネパール語のやりとりをじっと見詰める。どうやらバンダは中止らしい!
AM7:00 ご夫妻に見送られながら、予約してもらったタクシーに乗り込む。
「けっこう重いですね!」息子の50Lザックを持ってくれたクリシュナさんが
心配そうな顔をしてくれている。彼はほんとに優しい人だ。
たしか昨日も奥さんが、雪山の経験はありますか?と優しく聞いてくれていた。
それも無理はないだろなと思う。
アウトドアに縁遠そうなオヤジとその息子、ほとんど会話がない二人。
前日、大声で怒鳴りあいをしてたのもたぶん聞こえていただろう、
英語もダメなうえに、ガイドもポーターも雇うことなく山に行く我々を客観的に
見ればかなりヤバそうに思えるはずだ。
実際、わたしもかなり不安なのだから・・・。
出発前、奥さんに日本の連絡先を教えといてほしいと言われる。
「もし帰ってこなければ、預かっている荷物をそちらに送らせてもらいますね」
一瞬ハッとしたが、「そういえばそうだな」と納得する。
強盗の被害報告やマオイスト達による不法な通行料の請求など、
メジャーなトレッキングコースとは言え、山の事故以外にも危険は多いらしい。
いい意味で、さらに気が引き締まった。よし行くか!
カトマンズで購入した、6万5000分の1の地図。Nayapulまで一般道が走っている。
AM8:00すぎ 拠点の街、ナヤプルに到着。朝早いからかトレッカーは自分たちだけだった。
ナヤプルのメインストリート、さぁいよいよやなと不安と緊張感が高まる。
タクシーから降りてすぐは、緊張からか足元がふわふわした感じで思考もまとまらない。
息子の方は、どう感じてるのだろうか?
メインストリートを歩いていると、ようやく少し気持ちが落ち着いてきた気がするが・・。
通りの先を見ると、大型ジープを囲んで人だかりができていた。
あれが情報に聞いていた乗合ジープだろか?
ガンドルンという村の手前くらいまで、荷物や人を運んでいるという。
ジープに乗れると2~3時間の退屈な林道歩きを省くことができる。
「ガンドルン?」とドライバーらしきイケ面の若者が聞いてきた。
「イェ、ハウマッチ?」と私、二人で1000ルピーだと言う。
相場がまったくわからない、600でどうだ?と言うと顔をしかめた。
けっきょく800ルピーで手を打ったが、
「しょうがねぇなぁ」というジェスチャーの割には、
そむけた顔がニヤニヤしてる・・・わかりやすい兄ちゃんだぜ!
私らは、ラッキーな客なんだろな。地元の子供たちはいくらなんだろ?
たいした額じゃないが、イケ面がデカイ態度なんでなんか悔しい。
前列には、息子とおばさんとドライバーの兄ちゃん。
二列目に地元のおじさん、おばさん、私、そして私とドアとのわずかな隙間に
小さい地元の女の子。せまくてかわいそうだったが、ぎちぎちなんで仕方がない。
後ろの荷台にはヤンチャな男子三人と大量の荷物。
詰め込めるだけ詰め込んで、けっこうなスピードで走る走る!
しっかりどこかに掴まってないと天井に頭をぶちつけてしまう!
根拠はないがたぶんこのクルマは安全で大丈夫だ、スリルがあって楽しい。
無表情で前を見ている息子は、どう感じているんだろうか?
ではまた次回に!
2013年04月08日
ヒマラヤトレッキング,ネパールへの旅 その7
3月6日(水)
宿の近所のレンタサイクル屋の若者たちは、最初から愛想が悪すぎた。
他の店を探すのが面倒で、ぶっきらぼうな兄ちゃんがオススメだという
自転車を借りたのだが、走り始めてすぐに後悔することになる・・・。
わざとハズレをすすめたとしか思えないぜ、ファッ~ク!
ママチャリ用のサドルでペダルが歪んでるのはガマンできたが、すこし走るとサドルが上に突き上げ
てくるのと、ペダルを強く踏むとチェーンが外れ、手が油まみれになるのにはまいった・・。
湖で漁をする親子たち、父親が投網を水面に打っていた。
息子さんが日本で働いていた事があるという老人と互いに怪しい英語で話す。そばにいたシャイな
子供たちは、この後、私たちの自転車を笑いながら走って追いかけてきた。無邪気でいいなぁ~と
思ったのも束の間、老人が見えなくなると突然「マネー!マネー!」と叫びながらしつこく追いかけて
きた!たくましいもんだとおもわず苦笑。
サイクリング中にも、いろいろと行き違いがあり
朝から機嫌の悪い息子が、とうとう一緒にいるのが嫌になったのか
昼12時頃に宿に帰るから、ひとりにしてくれと言い出した。
別にその提案は全くかまわない、こちらも一人は一人で大歓迎である。
しかし私は私なりに、どうも反抗的な息子と何とかうまくやっていこうと
苦心していたつもりだ。
なぜにそんな態度なんだ?さすがに腹立たしく、無性にムカついてきた。
「思春期めんどくせ~ぞ!」とさけびながら、その勢いでレンタサイクル屋に乗り込み
「ヘイ!こんなもんチェンジやチェンジ!」とサドルを手で叩きまくって、
兄ちゃんとにらみ合いながら交換してやった。なめんなよコラ!
おばさんたちが、おしゃべりしながら洗濯物を干していた。ネパールはかなり空気が乾燥している。
湖を眺めている、親子づれ。太陽の下にいると汗がにじむほど暖かかった。
ムカついたマイナスの感情のまま、街を走りまくったのが悪かったのか、
昼に宿に帰ると悪寒を感じ、のども少し痛くなってきた。
「やばいなぁ、これから山に入っていくのに・・・」と不安になり、息子やレンタの兄ちゃんに
対する負の感情が風邪の原因を作ったのだと、反省する。
帰ってきた息子と、山に向かうにあたり、宿に預かってもらう不要な荷物の事で
また揉める。軽量化に対する考え方にかなり差があった、私も神経質すぎたのかも。
互いに無言の気まずい雰囲気で、宿の夫妻に作ってもらったトマトソースのパスタを
いただく。
ご主人のクリシュナさん曰く、明日も「バンダ」の可能性があるという。
日数に余裕があるとはいえ、さすがにこれ以上時間を無駄にするわけにいかない。
明日の行動をどうするか悩みながら、ふとんにくるまり夕方まで横になる。
あすの朝6:00の時点でしか強制ストが行われるかどうかは判明しない、
体調回復とバンダが中止になることを祈りながら、ひたすら睡眠に努めた・・。
お待たせしました。次回から山に入っていきます。